JR横浜線 淵野辺(ふちのべ)駅から徒歩2分。地元のスーパーや飲食店が並ぶ通りに、専用のカードキーを持つ人だけが、扉を開けることができる「食堂」がある。
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「トーコーキッチン」は、2015年12月末にオープンした。運営主体は、淵野辺駅周辺を中心に、学生や一人暮らしの高齢者、近隣に勤める会社員等に物件を提供する「地域密着型」不動産会社の有限会社東郊住宅社だ。

トーコーキッチンは、行き詰まりを見せていた飲食店をリノベーションし、シェフはそのまま東郊住宅社の正社員として雇用し、近くの商店街からできるだけ食材を仕入れて提供する「食堂」としてリニューアルした。
ただし、この食堂を利用できるのは、専用のカードキーを持つ東郊住宅社の管理物件入居者、物件オーナー、取引関係会社、東郊住宅社の社員そして、カードキーを持つ人と一緒に訪れた人のみである。通りを歩いている人がカフェだと勘違いして、何度もドアを開けようとしたが開かない。気が付いたスタッフがドアを開けて、店の仕組みを説明する・・・といった光景は日常茶飯事だ。なぜ、このように利用者を「限定する」仕組みにしたのだろうか。
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淵野辺駅周辺には3つの大学が所在し、大学生の一人暮らし向け物件へのニーズが高い。しかし、入居するのは大学生であるものの、契約にかかる費用や月々の家賃を払うのは親である場合がほとんどだ。物件を探す際には親と子どもが一緒に不動産会社を訪れ、「親の目線」で物件を決めることも少なくない。代表取締役 池田峰氏は、物件を紹介する過程で、親は生活の場と同様、ひとり暮らしを始める子どもの食生活や健康への不安が大きいことを知っていた。大きな額の仕送りはできないが、日々の食事や健康のことは気になる。学生寮に入れるという選択肢もあるが、食事の内容は決まっている上に、食べなくても月々決まった費用がかかってしまう。授業やアルバイト、インターンなど最近の忙しい学生の生活スタイルやコンビニなど選択肢の多さとも合っていないと感じた。その時、ちょうどテナントで入っていた飲食店が行き詰まりを見せていたこともあり、親のニーズや学生の生活スタイルにも合う、食べたい時に食べ、飽きない食事を提供することができれば・・・・ただ一つ、事業で赤字を出さないことさえクリアできれば、「すべての方程式がうまくいく」と考えた。なにより、衣食住の中でも「食」への魅力も感じていたことから、不動産会社としては例のない取り組みであったが、「トーコーキッチン」を始めた。

トーコーキッチンの中に入ると、高めのカウンター席やテーブルと椅子を組み合わせた席など全部で24席。ひとりでも気兼ねなく、友達を数名連れてきても一緒に食べることができるちょうど良い設えになっている。床には、東郊住宅社をイメージさせるオレンジ色の三角がモチーフのタイルが貼られ、出入り口の外まで続く。食堂の中だけの閉鎖された空間でなく、外ともつながる場を意識してつくられたものだ。
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営業は、朝は8時から夜20時まで。朝食は100円、昼食と夕食は500円で日替わり定食か2種類の週替わり定食のいずれかを選ぶ。オーダーは、専用の用紙に自ら記入する「アナログ」方式で、オーダーを書いた用紙は、レジまで持って行き、支払いを済ませてから食事を待つ。レジの側には、近くの生活介護事業所でつくられたお菓子やこども用の絵本などが置かれ、地域とのつながりや来る人への配慮を感じさせる工夫がされている。
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食事は、その内容からすると破格の値段だ。それは「トーコーキッチン」があくまで入居者へのサービスの一環である、という考えによるものだ。入居者へのサービスであるから、収支は「トントン」であれば良い。また、500円以上にすると他の飲食店とトーコーキッチンのどちらかを「選ぶ」事になり、素材やメニューに工夫を凝らしても来てもらえない可能性もある。それよりも、トーコーキッチンが入居者、物件のオーナー、取引関係会社、東郊住宅社の社員が一緒に食事し、互いがフラットな関係になること、そして入退去時や何か不具合がある時だけの関わりから、日常生活の延長で関わりが生まれる「場」になることを目指した。

現在、トーコーキッチンには、日に120人から、多い時には150人が訪れる。定番の人気メニューや飽きのこないメニューづくり、そして写真映えのする料理は、利用者のSNS投稿を通じて拡散され、ファンを増やしている。東郊住宅社の物件に住んでいなくても、カードキーを持つ入居者と一緒に訪れて食事をする「常連」もいるそうだ。
私たちが訪問した日も、閉店近くなると急ぎ足で入店して食事をする人がちらほら。トーコーキッチンで食事をすることが、利用者の生活に一部になっていることがうかがえた。
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トーコーキッチンを始めたことで、物件のオーナーが自身の農地で育てた食材を提供するようにもなり、物件以外でのオーナーとのつながりが生まれた。最近では、食事の質の高さやこだわりを知って、近隣の保育園から朝食の提供を依頼されている。また、トーコーキッチンで入居者と東郊住宅社の社員が顔を合わせるようになったことで、社員が入居者の日常生活を知るきっかけとなり、日々の困りごとにもすぐに対応できるようになったと言う。
大きな変化は、トーコーキッチンの認知が広まるにつれ、物件に対する家賃交渉は皆無となり、入居率が向上、住み替えも少なくなり、空室率も減少した。管理料の引き上げを申し出るオーナーも出てきている。徐々にだが、淵野辺駅周辺への人の流れも生み出している。不動産産業と言えば、これまで、学生の入れ替えの時期に左右される季節的な産業だと言われてきたが、時期を問わず物件への問合せも増え、社員の意識も変わった。

東郊住宅社の管理物件で採用されているカードキーは、トーコーキッチンを利用できる「権利」の象徴となり、東郊住宅社の物件の価値の向上、さらには淵野辺という地域の価値をも高める効果を生み出していると言えるだろう。

池田氏は、まちづくりを目指しているわけではない。トーコーキッチンはあくまで入居者へのサービスであり、今後も東郊住宅社の不動産事業がメインであることには変わりはない。しかし、トーコーキッチンは、食事をする「場」に、利用者を限定する「ルール」、そして利用者のニーズに沿った「サービス」と「関係づくり」を掛け合わせた仕組みを埋め込むことで、入居者へのサービスにとどまらない、不動産事業としての成果、そして結果として淵野辺という地域への貢献を生み出すという、「地域密着型」不動産会社の次の在り方を、明確に示している。