場づくりマーケティング・コンソーシアム

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 このところ、全国各地で地域のブランド化の取り組みが進んでいる。地域の独自の文化・風習や県民性をテーマにしたテレビ番組が人気を集め、また”ゆるキャラ“や”B級グルメ“のグランプリの結果がワイドショーを賑わすなど、地域ブランドが一種の「ブーム」になっている。しかし、全国で地域ブランド化の取り組みが進むなか、居住人口の増加や社会課題の解決といった、実効性のある成果にまでつなげられているケースは、まだ少ない。
地域に注目が集まる今、「地域のブランド化」を一時のブームに終わらせることなく、持続可能かつ発展的な活動につなげていくためには、何が必要だろうか。

 そこで、場づくりマーケティング・コンソーシアムでは、地域の施設に関して主体的な役割を担う「自治体」を対象に、地域のブランド化の状況とともに、関与する施設の状況や課題、今後の意向等を把握する調査を2012年8月下旬から9月にかけて実施した。
地域のブランド化と施設を関連付けて取り上げた理由は、地域のブランド化が『地域の独自性(「違い」)に関心を持ち、ファンになってもらう』ことが目的であり、それには地域を表す「場」、ミュージアムが重要と考えたためである。ミュージアムが施設内にとどまらず、まち全体を変える力を持ち得るのか?その観点から、調査結果をシリーズで紹介したい。

 今回は、その1回目として、地域ブランド化の現状をまとめる。

Ⅰ.地域ブランド化の現状
 地域ブランド化に際しては、【図1】の通り、「民間事業者」、「経済団体・業界団体」、「NPO組織・住民組織・ボランティア」など多様な関与者がみられ、自治体単独だけではなく、さまざまな組織とのコラボレーションで取り組みが進められている。
 
【図1】地域ブランド化への、自治体以外の関与者 
図1

 地域ブランド化の取り組み成果は、【図2】の通り、「地域のイメージアップ」、「地域の認知度向上」、「観光客の増加」で、「期待以上」と「期待どおり」の合計が4割前後と高い。一方で、「農水畜産業の担い手の確保」、「雇用機会の増加」、「中心市街地や商店街の活性化」などでは「期待以下」が3割弱と、比較的成果が低い状況。地域活性化のきっかけにはなっているものの、地域経済の立て直しにまで至っている例は多くないといえる。

【図2】地域ブランド化の取り組み成果
図3
加藤 昌俊 

山梨県甲府から車でおよそ1時間、最寄り駅の清里駅からも車で15分ほど。のどかなりんご園や遠くに拡がる山の風景になかに3つの連なった校舎が現れる。旧津金学校。明治・大正・昭和という三代に渡って増えたという校舎は、旧須玉町津金地区の教育の場として役割を担ってきた校舎である。
過疎化が進み、1992年に閉校となったが、今ではそれぞれが特色のある新たな活動の場として生まれ変わっている。「おいしい学校」「大正館」そして、その一番奥にある白とブルーのコントラストが映える木造の校舎、「津金学校」だ。
明治8年総研の津金小学校
 1階にあるカフェのメニュー看板で出迎えられ、受付に入る。早速入館チケットを買うと、おしゃれなだけでなく、ずいぶんと大きい。裏返して見ると、「80yen post card」と左上に書かれている。この入館チケット、葉書になっているのだ。もらっても捨てられてしまうのが普通であった単なるチケットを、訪れたひととそのひとの知り合いにつなぐものに変えたのだ。

 昨年まで旧北杜市須玉歴史資料館として活動してきた津金学校。歴史資料館として、展示コーナーには明治期からの学校にあった物々が並ぶ。1階の中央には古い足踏みオルガンやピアノ。ここではほとんどの楽器に自由に触れることができる。「寄贈根津嘉一郎」と書かれた日本の鉄道王からのピアノもある。「根津さんのピアノ」と親しまれたそうで、なんとその歴史的ピアノも自由に弾いて良いのだ。御夫婦で入ってきた御婦人の方が「まあ、触っていいの?」懐かしそうに、置いてあった楽譜を見て弾き始める。オルガンの音色が流れると、生徒たちの歌っていた風景を感じることができる。
オルガンを弾き出す
 2階にあがると、昭和30年代の様子が復元された教室。正面の黒板と教壇、世界地図に向かって木製のイス机が並ぶ。教壇には当時使われていた教科書と、授業のはじまりを知らせるベルが置いてある。こちらも触わってOK。振ってみると、思った以上に響きわたる大きな音にびっくりするかもしれない。オルガンの音色で感じたのと同様に、目の前に生徒たちが集まってくるような気がする。ここは学校だったという過去の歴史紹介の場ではなく、いまでも「ここは学校なのだ」という気配を訪れるものに感じさせる。
教壇に置かれた鐘を鳴らすと、授業が始まりそうな教室
 3階のとても急な階段を上がると、外から見るとチャペルのように見えた塔のなかは、大きな和太鼓がつりさげられている。太鼓楼だ。窓からは校庭の先に拡がるりんご園と森、そして南アルプスが一望できる。創建当時の子どもたちもこの景色を見ていたと言う。そしてもちろん、この階の太鼓も鳴らしてOK。鐘の変わりに鳴らしていたという太鼓は、とても新鮮な音であると同時に、この学校がいかに歴史の深さを体験できるのだ。

 2011年8月21日、津金学校は、「津金一日学校」を開いた。学校と地域住民の集い、新しい文化発信の場、にしようと企画された。校舎として子どもが登校するのは26年ぶりのことだ。子どもたちのにぎやかな声。卒業生からも喜びの声で沸いたそうだ。当日の授業は、「書道」華雪先生、「冒険」服部文祥先生、地元の食材にこだわって校舎内の給食室で作った給食、「ダンス」伊藤千枝先生など、通常の学校授業とはちょっと違う、見たことのない先生の聞いたことのない授業が開かれた。ホームページを訪れて、youtubeを見ていただければ、子どもたちの好奇心に満ち溢れた表情を見ることができる。
http://www.tsugane.jp/meiji/1dayschool/intro.htm
無題

地元新聞、口コミでの反響も広がり、今年も開催され、すぐに満員になったとのこと。この様子は、ちょうど今「津金一日学校」写真展にて見ることができる。開校から135年の時を経て、卒業生が、学校当時を知らない子どもたちが、地域のひとたちが、みんなが集まり学ぶ場として開かれた授業。津金学校は、昔を知る展示資料館ではなく、新しい学びの場としてこれからの可能性を教えてくれるミュージアムだ。

田中摂


メディアテークは人と社会を、意思を持って、インターフェイスする
市民の知を共有資産に、過去と未来を結ぶ節点(ノード)

メディアテークの外観

せんだいメディアテークは、ミュージアムか。答えるに、非常に悩ましい。曖昧かつ多義に使われがちなメディアという言葉は一体何を意味するのか。
 
仙台市の中心、けやき並木が整然と整備された定禅寺通りの一角。外壁全面がピカピカのガラスで覆われ、そこは内なのか外なのか境界が見えない巨大な建物に出会う。それが、せんだいメディアテークだ。斬新かつ特徴的な伊東豊雄の建築に、図書館やギャラリー、スタジオ等のオープンスペース、カフェ、ショップなど多機能な複合施設の先駆として、2001年開館当初から一目置かれてきた。

一階エントランス

メディアテークの7階、情報発信のための創作活動のスペースであるスタジオに、「考えるテーブル」はあった。何面もの大きな黒板が並び、机や椅子までも黒板で出来ている。この日は、「震災時何をしていましたか」「震災後何が変わりましたか」について、ワークショップ参加者ひとりひとりの言葉が丁寧に、赤・白・黄色のチョークでイラスト交じりに残されていた。筆跡に垣間見えるのは、どんな言葉も発したありのままに書き留められていることだ。ここは、地域社会について、復興について、何かを決めるのではなく「考える」場であるという。その意味は、市民ひとりひとりが「伝える」「聞く」「書き留める」という行為を通して、自分に向き合い、また、お互いを理解し合うためにある。

考えるテーブル



2階映像音響ライブラリーの一角に、市民へのインタビューや復興の活動の様子を映像や写真で伝える展示スペースがあった。震災による影響に共に向き合い、考えるための「3がつ11にちをわすれないためにセンター」(わすれん!)の活動の一部だ。わすれん!では、市民や専門家が協働し、震災や復興の過程の記録を収集・アーカイブ、またNPOや市民団体の情報発信や記録制作を支援する活動を行っている。


わすれん!センターのWEB

 

映像や写真は、当時の様子をそのままに伝える大変貴重な資料だ。情報の発信や蓄積を市民サービスに位置づけていた館にとってはお得意としていたところではあるが、震災を契機に、その当事者でもあるが故に、現実をみつめ語られねばならない地域の姿、その文脈に、より一層の責務の重圧がのしかかったことだろう。今見て受け取れるのは、その重役を、ここでしかできない使命として果敢に挑み続けているプロジェクトの数々の生の姿だ。

メディアテークは、人の知や活動を地域の共有資産に、それぞれを結びつけ、育み、広げる。そこには、「地域社会のために、未来後世のために」という明確な意思があるからこそ、市民は安心して、力強く前進していけるのかもしれない。
 
せんだいメディアテークは、ミュージアムか。確信を持てる解がある。震災を乗り越え、仙台に生きている市民の姿を知ろうと歴史をたどる後世にとってみれば、今ここは、間違いなく、ミュージアムだ。

佐竹 和歌子 


滋賀、伝統的建造物群保存地区である近江八幡のまちにひっそりと、それでいて鋭く存在を象徴するミュージアムがある。今次々と日本国内にも誕生しはじめるアール・ブリュットの美術館、そのモデルにもなっている。障がいのある人の表現活動を展示、さらに「障がい者と健常者」「福祉とアート」「アートと地域社会」など、様々なボーダー(境界)を超えていくことに取り組むミュージアム、“ボーダレス・アートミュージアムNO-MA”だ。
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隣家と同じ様式の板塀からなかを見ると、入口の脇にある牛乳瓶入れ、小石で敷き詰められた庭、手入れされた植木、開かれたガラス扉の奥に灯る白熱灯。懐かしい気持ちと、自分を待っていてくれているかのような温かい光景が目の前に広がる。展示された作品の数々は、そんな町屋の生活感を残した部屋に丁寧に飾られている。

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ボーダレス・アート、このコンセプトは展示のコンセプトそのものにもなっている。あるときは、畳のひとまに現代アーティストと障がい者のアート作品が説明書きも最小限に並べてある。アール・ブリュットとそうでないアートの違いはなんなのかを直接的に訴えかけるのではない。展示を通じて、「人の表現にボーダーはあるのか」「表現活動の根底にあるものに、違いはあるのだろうか」、それを訪れるものに感じさせるのだ。

滋賀県では、戦後まもなく「日本の障がい者福祉の父」とも言われる糸賀一雄をはじめとした幾人かが、障害のある児童等の教育・医療施設「近江学園」を創設。1946年、本当に戦後まもなくである。そこでは信楽の粘土を利用した陶芸など造形活動が当初から取り入れられ、1954年からは展覧会も始まった。2010年にパリで開催され12万人を集めた「アール・ブリュット・ジャポネ」展では、出展作家のおよそ3分の1が滋賀出身の作家だったとか。日本にアール・ブリュットという言葉が浸透する何年も何十年も前から、この地には障がい者の造形活動に真摯に取り組み、それが脈々と受け継がれ、今日につながっているのだ。

美術館として町屋を選んだのは、敷居の高い空間ではなく、人が暮らしていた空間でこそ、アール・ブリュットの作品が生活に溶け込むと考えらたからだったという。NO-MAは先導的で挑戦的なミュージアムだ。しかし、その施設は奇をてらうことなく、昔ながらの町屋に溶け込み、広告や刊行物も決して主張しすぎない。むしろ伝統的建造物群保存地区という、実は失われかけている日常、生活の場とも言える街並みと、そういった挑戦が出来る土壌が両立していることでこの地の魅力をさらに深いものにしている。ボーダレス・アートは障がい者か健常者かというボーダーだけでなく、生活という場の限りない可能性をそっと教えてくれるミュージアムだ。

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田中

日常にあふれる不思議さに、目を見はる喜びを教えてくれる場所
世界一小さな科学館は、世界一身近にある科学館

内臓解剖タイム

この日、いのちのけんきゅう展の目玉のワークショップがはじまった。それも、「ブタの内臓観察タイム」。待っていましたと言わんばかりに子どもたちが、わっと中央のテーブルに集まる。用意されたのは、本物の内臓。肝臓や胆のう、胃、小腸、大腸、眼球や肺など次々に机に並べられる。
「これは、小腸か大腸かどっちだと思う?」
「小腸は血液を循環させるために赤いのですよ。」
「小腸は、栄養を吸収するためにあるから、大腸より長いんだよ。」
「じゃあ、実際に肺を膨らませるよ~。よぉ~~く見てみて!」
「おぉ~!!こんなに膨らむんだ!横隔膜ってこんなふうに動くんだ!」
子どもたちは目を輝かせながら、学芸員の山浦さんの一挙一動に食い入り、質問に対して我先に応えようとする。大人顔負けの受け答え。

館内

科学は生活の中にある。そんなことを私に教えてくれたのは、逗子にある世界一小さな科学館、理科ハウス(LiCa・HOUSe)だ。身の回りの生活にはじまり、果ては、宇宙、時空を超えて、自らの心の内から湧き上がるどうして?なぜ?に向き合い、物事の原理原則を問う。不思議さに目をみはり、その謎を解き明かしていく知の喜びを体験することが科学の根本だろう。「どうして葉っぱは紅くなるの?」「どうして月はついてくるの?」幼い子どものささやかな謎かけだって立派に科学している。

理科ハウスでは、誰もが、身の回りの不思議さに目をみはり、その謎を解き明かしていく発見の驚きに感嘆を上げる。「感じる」、「見つける」、「知る」、そしてそれをまわりに「伝える」。その楽しさや面白さに火を点けてくれる場所だ。

ほぼ宝石ショップ

理科ハウスの展示もワークショップも、「本物を見せること」、「問いかけにはじまり、手を動かして考えさせること」、そして、「学芸員と来館者、来館者同士の生の対話が生まれること」に終始徹底していた。企画も展示も、全て、手づくり。スタッフは、森館長と山浦学芸員の二人だけ。二人とも、フル稼働だ。だがその中で、子どもたち同士で、はたまた、子どもが親に、ねぇねぇ聞いてと教え合いが自然に始まっている。考えて試したその先に手に入れたことは何でも嬉しい。

外観

「開館の準備から今まで、いつも科学を身近なものにするためにはどうすればいいのかをひたすら模索してきました。」

そう語るのは、森館長。理科ハウスが開館したのは2008年の5月のこと。館長の森さんが逗子のこの場所に、建物の設計から携わり、私設のミュージアムとして開館した。かつてPTA仲間だった山浦さんに声をかけ、二人で科学を身近に感じられる地域の科学館をつくろうと計画が立ち上がった。

理科ハウスの資金源は、わずか100円の入場料(中学生以下は無料)と、オリジナルの周期表Tシャツや科学キット、などショップで販売するグッズ、出張講座、そして、人の寄付や善意から成る。それでもひとつのミュージアムを運営していくのに、まだまだ全然足りない。日本では、ミュージアムどころか文化へ寄付をするという行為が一向に根付いていない。国や自治体から助成金や補助金をもらう道もあるが、理科ハウスはそれをあえて選ばない。むしろ、その予算を学校の理科教育の充実に充ててほしいという。森館長は、こう続けた。

「どこの科学館でもそうですが、助成金なしに経営していくのはなかなか大変です。それでも、地域の人やまちの人にその存在が必要と認められれば、何かきっと道はあるにちがいないと楽観的な私はいつも思います。利用者にとって、科学が身近になる場が必要と思ってもらえるように、その対価への意識を変えることからはじめていきたいと思っています。」

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「科学の研究者、一般市民、そして子どもたちが、科学について語れる場所、それが理科ハウスです。多くの人に支えられていることに感謝をしながら、地域の科学館としてより一層親しんでもらえるよう、まだまだやりたいことは、たくさんあるね。」

森館長と山浦さんは、楽しそうに笑う。

科学が身近になるとは、どういうことか再び問う。身の回りにある不思議さに目を向けることから広がる世界は、果てしなく大きく、新鮮だ。そしてそれを受け止めてくれる存在は、家庭にも、学校にも、自分の傍にあってほしい。大人も子どもも一緒になってその不思議さに目を向けられる場所。不思議の謎を解くとっておきのヒントを教えてくれる、ご近所にふらっと訪ねられる科学館こそ、これからのまちをつくる新しい仲間なのかもしれない。

佐竹 和歌子

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