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タグ: まちの歴史

山梨県甲府から車でおよそ1時間、最寄り駅の清里駅からも車で15分ほど。のどかなりんご園や遠くに拡がる山の風景になかに3つの連なった校舎が現れる。旧津金学校。明治・大正・昭和という三代に渡って増えたという校舎は、旧須玉町津金地区の教育の場として役割を担ってきた校舎である。
過疎化が進み、1992年に閉校となったが、今ではそれぞれが特色のある新たな活動の場として生まれ変わっている。「おいしい学校」「大正館」そして、その一番奥にある白とブルーのコントラストが映える木造の校舎、「津金学校」だ。
明治8年総研の津金小学校
 1階にあるカフェのメニュー看板で出迎えられ、受付に入る。早速入館チケットを買うと、おしゃれなだけでなく、ずいぶんと大きい。裏返して見ると、「80yen post card」と左上に書かれている。この入館チケット、葉書になっているのだ。もらっても捨てられてしまうのが普通であった単なるチケットを、訪れたひととそのひとの知り合いにつなぐものに変えたのだ。

 昨年まで旧北杜市須玉歴史資料館として活動してきた津金学校。歴史資料館として、展示コーナーには明治期からの学校にあった物々が並ぶ。1階の中央には古い足踏みオルガンやピアノ。ここではほとんどの楽器に自由に触れることができる。「寄贈根津嘉一郎」と書かれた日本の鉄道王からのピアノもある。「根津さんのピアノ」と親しまれたそうで、なんとその歴史的ピアノも自由に弾いて良いのだ。御夫婦で入ってきた御婦人の方が「まあ、触っていいの?」懐かしそうに、置いてあった楽譜を見て弾き始める。オルガンの音色が流れると、生徒たちの歌っていた風景を感じることができる。
オルガンを弾き出す
 2階にあがると、昭和30年代の様子が復元された教室。正面の黒板と教壇、世界地図に向かって木製のイス机が並ぶ。教壇には当時使われていた教科書と、授業のはじまりを知らせるベルが置いてある。こちらも触わってOK。振ってみると、思った以上に響きわたる大きな音にびっくりするかもしれない。オルガンの音色で感じたのと同様に、目の前に生徒たちが集まってくるような気がする。ここは学校だったという過去の歴史紹介の場ではなく、いまでも「ここは学校なのだ」という気配を訪れるものに感じさせる。
教壇に置かれた鐘を鳴らすと、授業が始まりそうな教室
 3階のとても急な階段を上がると、外から見るとチャペルのように見えた塔のなかは、大きな和太鼓がつりさげられている。太鼓楼だ。窓からは校庭の先に拡がるりんご園と森、そして南アルプスが一望できる。創建当時の子どもたちもこの景色を見ていたと言う。そしてもちろん、この階の太鼓も鳴らしてOK。鐘の変わりに鳴らしていたという太鼓は、とても新鮮な音であると同時に、この学校がいかに歴史の深さを体験できるのだ。

 2011年8月21日、津金学校は、「津金一日学校」を開いた。学校と地域住民の集い、新しい文化発信の場、にしようと企画された。校舎として子どもが登校するのは26年ぶりのことだ。子どもたちのにぎやかな声。卒業生からも喜びの声で沸いたそうだ。当日の授業は、「書道」華雪先生、「冒険」服部文祥先生、地元の食材にこだわって校舎内の給食室で作った給食、「ダンス」伊藤千枝先生など、通常の学校授業とはちょっと違う、見たことのない先生の聞いたことのない授業が開かれた。ホームページを訪れて、youtubeを見ていただければ、子どもたちの好奇心に満ち溢れた表情を見ることができる。
http://www.tsugane.jp/meiji/1dayschool/intro.htm
無題

地元新聞、口コミでの反響も広がり、今年も開催され、すぐに満員になったとのこと。この様子は、ちょうど今「津金一日学校」写真展にて見ることができる。開校から135年の時を経て、卒業生が、学校当時を知らない子どもたちが、地域のひとたちが、みんなが集まり学ぶ場として開かれた授業。津金学校は、昔を知る展示資料館ではなく、新しい学びの場としてこれからの可能性を教えてくれるミュージアムだ。

田中摂


文化による復興を貫いて、時代を記録し続けるまち

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ドイツ、フランクフルトから特急に乗って二時間弱。ドイツの地方都市人口20万のまちカッセルは、2012年夏、現代アートの芸術祭ドクメンタに湧いていた。ドクメンタとは5年に一度会期100日間、カッセルの地で開催される国際的な現代アートの祭典である。
世界中からアート界の先端として一目置かれ、批判批評共に厳しく受けるドクメンタであるが、カッセルのまちを訪れてみて感じたこと。それは、まちの文化的成熟、つまるところの、ドクメンタのある「日常」である。この名の知れないまちが、圧倒的なスケールと重厚感で展開される現代アートの作品群に符合し、世界中の来訪者を迎え入れる度量は一体何に起因しているのか。アートの質ではなく、まちとドクメンタの関係性といった視点で、検証してみる。
はじめて訪れたカッセルのドクメンタで、とても会場とまちの全ては周りきれなかったが、肌で感じたその様相から以下の3点にまとめる。

1つ目に、まちの歴史を起源としていること。第二次世界大戦の砲撃によるまちの崩壊からの復興、ナチスの文化芸術迫害からのアートの復権という大戦の負の歴史を昇華するためにドクメンタははじまった。その理念は、世界の政治的混乱、格差、貧困、戦争、経済危機など社会矛盾に対して強烈なメッセージを放ち続けている。まちの中に残っている戦争の爪痕は会場の一部となり、キュレーターやアーティストはまちの歴史や文脈に則ってドクメンタを創り上げる。

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2つ目に、まちにでれば、そこが会場であること。ドクメンタの会場は、カッセルのまちの主要部全てだ。メイン会場は、フリデリチアヌム美術館だが、自然史科学館、宮殿、通信博物館、ノイエギャラリー、グリム兄弟博物館などミュージアムはもちろん、中央駅や市庁舎、ホールといった公共施設。さらに、ショッピングモールや映画館、旧病院や倉庫など、極めつけは、125㌶のカールスアウエ公園。作品同士が会場別に遠隔でつながっていたり、常設展とのコラボレーションをみせていたり、作家がまちの構造を丹念に追った展開も汲み取れる。まちに繰り出せば、どんなアートに出くわすか、そしてそれを、誰と共有し、何と解釈するのか。まるで謎解きのミステリー、比類なき冒険心がくすぐられる。

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3つ目に、まちの市民の暮らしが見えること。まちの主要部を会場としているため、そこには当然そこで暮らしている人たちがいる。例えば、公園。多くはフリーの空間であり、作品の横を犬の散歩をしたり、芝生にくつろいだり、市民にとっての憩いの場所であることには変わりがない。また、市内の飲食店に入れば、自然に「ドクメンタにようこそ」と店員に声をかけられ、今年の楽しみ方のアドバイスくれる。隣の席のお客も一緒になって、会話に入る。ドクメンタには市民から総勢200名強のボランティアがスタッフとなって入り、受付やガイドツアーを会期中毎日行っている。50年にわたって13回開催してきた実績に裏打ちされる市民への浸透度は、当然半端ない。

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ドクメンタのために、世界中から様々な人が訪れるカッセル。日本では、現代アートといえば、観賞者を選んでしまわれがちだが、ドクメンタのこのバラエティはどうだろう。それだけドクメンタが、ヨーロッパやドイツの人々にとって、待ちに待ったエンタテイメントなのかもしれない。世界各国の来訪者をどっしり構えて受け入れるカッセルのまちは、悲惨な戦争を乗り越えて、多様性を受け入れる寛容な心が育ってきたまちの成熟と受けとめられないか。ドクメンタには、「時代を記録する」という意味も込められる。ドクメンタの先鋭のアートが発するメッセージは世界の今を伝える。そのドクメンタの開催の記録を記憶し続けるのは、カッセルのまちと来訪者だ。日本の芸術祭がこれからどのような道をたどるかは、そのまちで暮らす人々の度量にかかっている気がする。

佐竹和歌子

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